逆境的小児期体験(ACEs)と、その反対側にあるもの

子どもは生まれる場所を選ぶことはできません。どんな家庭に生まれ、どんな大人に囲まれて最初の十数年を過ごすのかは、本人にはどうにもならない部分です。それなのに、その時期に何が起きたかは、その後の健康にも人との関わり方にも長く残り続けることを示す研究があります。大学院で逆境的小児期体験(Adverse Childhood Experiences、以下 ACEs)を扱った文献を読んだとき、私がまず感じたのは理不尽さでした。

ACEs は、人生最初の18年間に経験する虐待・ネグレクト・家庭の機能不全のことを指します。情緒的、身体的、性的な虐待。情緒的、身体的なネグレクト。家庭内暴力、家族の薬物やアルコールの乱用、家族の精神疾患、両親の別居や離婚、家族に受刑者がいること。こうした体験のうちいくつに当てはまるかを数えたものが、ACEs スコアと呼ばれます。

珍しい体験ではない

この概念が広く研究されるようになったきっかけは、それが決して稀な体験ではないにもかかわらず、成人期の主要な死因に大きく影響していると示されたことでした。高学歴で中流階級の中年の成人を対象にした調査では、その3分の2が少なくとも1つの ACE を持っていたそうです。

ここが個人的に驚いた部分でした。逆境というと、どこか自分とは違う特殊な環境の話として思い浮かべてしまいがちです。けれどもごく普通に働き、ごく普通に暮らしている人たちの中の多くに、それが混ざっているというのです。

体に残るということ

ACEs スコアが高いほど、喫煙やアルコール依存といった、健康を損なうおそれのある行動のリスクが高まるそうです。そしてその先で、がんや糖尿病をはじめとする身体の病気のリスクも高まることが示されているといいます。心の傷が残るという話にとどまらず、身体の疾患にまで累積的につながっていくところが、この研究の重たい部分だと思います。

その経路は、おおまかにはこう説明されています。逆境体験が神経生物学的な発達に影響を与え、それによって認知のスキルや人との関係の持ち方、感情の制御に問題が生じます。すると、その場をしのぐための短期的な対処を取る確率が高くなり、結果として慢性疾患や社会的な問題のリスクが積み上がっていきます。

この最初の一歩、逆境が神経生物学的な発達に影響するという部分を説明しているのが、ストレス反応の話です。脅威に対して心拍が上がったり血糖値が上がったりする反応は、本来は短期的なものです。それが長期化すると、身体と脳が少しずつ摩耗していくのだそうです。この摩耗の蓄積はアロスタティック負荷と呼ばれていて、発達の途上でそれが起こると、影響はより大きくなるとされています。

しかもこの影響は、その世代だけで終わるとも限らないようです。逆境を直接経験していない次の世代にまで及びうると指摘する研究もあり、世代を超えて伝わっていく、と言われています。

だからこそ介入の対象は、子どもだけではありません。養育者自身がまだ自分の ACEs から回復していないこともあるという観点から、養育者へのケアを組み込んだプログラムが開発されているそうです。

反対側にあるもの

逆境の影響を和らげる側の体験についても検討されており、そちらは PACEs(保護的・保障的体験)と呼ばれ、ACEs と同じく18歳より前の体験を指し、レジリエンスや感情の制御を高める働きをするそうです。

構成する要素は、関係性と資源の2つに分かれます。関係性のほうには、親からの無条件の愛、親友がいること、コミュニティでのボランティア活動、社会集団の一員であること、家族以外の大人からのサポートを受けられることが挙げられていました。資源のほうには、十分な食事があり清潔で安全な家で暮らすこと、学ぶための資源と機会があること、夢中になれる趣味を持っていること、定期的に体を動かしていること、規則正しい日課と一貫したルールのある家族の一員であることが含まれます。

このリストを読んで目が留まったのは、家族の中だけで完結していない項目が入っていることでした。家庭が安心できる場でなかったとしても、その外側に安心して過ごせる場所や関わりがあれば、それが保障的に働きうるということになります。

私はもともと、suspended coffee のような第三者の善意に触れられるブックカフェをやりたいと思っていて、PACEs を知ってから、その場にそういう意味づけもできるのだと思うようになりました。「本のおくすり」をいずれ実店舗にしたいのも、オンラインの相談員を始めたのも、その延長にあります。

自己責任という言葉の前に

目の前の人が抱えている困りごとの背景に、その人には選べなかった十数年が横たわっている可能性がある。ACEs という見方を知ってから、私はその可能性を前提に置くようになりました。知っているかどうかで、同じ状況の見え方は変わります。

大人になると、そうした背景ごと自己責任として扱われてしまう場面があります。私はそこに理不尽さを感じます。何かができるようになるという話ではなくても、まず知っている人が増えるだけで、自己責任という言葉を使う手前で一度立ち止まる余地は生まれるはずです。

参考

  • ヘイズ・グレード, J.・モリス, A. S. 著 菅原ますみ 監訳 (2022). 小児期の逆境的体験と保護的体験:子どもの脳・行動・発達に及ぼす影響とレジリエンス. 明石書店
  • Felitti, V. J., Anda, R. F., Nordenberg, D., Williamson, D. F., Spitz, A. M., Edwards, V., Koss, M. P., & Marks, J. S. (1998). Relationship of childhood abuse and household dysfunction to many of the leading causes of death in adults: The Adverse Childhood Experiences (ACE) Study. American Journal of Preventive Medicine, 14(4), 245–258.