苦しく、辛い経験をした人は、そのあとで二つに分かれるように見えます。「自分はこんなに苦労したんだから、他の人も苦労すべきだ」と考える人と、「次の人はこれで苦しまないように、自分にできることはないか」と考える人です。
私の中には、両方があります。仕事の面では、丸投げに近い形で振られてくるものを自力でこなして力をつけてきました。そのせいか、「こんな、すぐ調べればわかることで人の時間を取るのか」と、人を心の中で厳しく見てしまうことが時々あります。その一方で、孤独感に苦しんだ過去から、いま孤独に苦しんでいる人の助けになりたい気持ちもあって、ボランティア相談員を続けています。同じ人の中でも、苦労は厳しさにもなれば、優しさにもなるようです。今回はこの分かれ道がなぜ生まれるのかを、いくつかの文献を手がかりに考えてみます。
経験者のほうが冷たい、という結果
不公平な目に遭うことが人をどう変えるかを調べた実験があります。Zitek et al. (2010) では、人生が不公平だったと感じた出来事を思い出しただけで、そのあと人助けを引き受ける割合が下がりました。効いていたのは怒りではなく、「自分はもう十分苦しんだのだから、これ以上の不便は引き受けなくていい」という権利意識でした。日常の軽い不公平は、人を少し利己的な側へ押すようです。
ただ、この実験が扱っているのは、その場かぎりの軽い不公平です。「自分も苦労したんだから」の苦労は、もっと長い時間をかけて積み重なったものです。そこで、いじめや失業のような実人生の苦難で同じことを調べた研究に、Ruttan et al. (2015) があります。この研究が調べたのは、苦難を耐え抜いた経験のある人は、いまその苦難に苦しんでいる人にどう接するか、です。
普通に考えると、経験した人こそ一番わかってくれる気がします。実験の参加者もそう予想しました。112人中99人が、いじめられた経験のある教師のほうが、いじめに苦しむ生徒に同情的だろうと答えています。しかし結果は逆でした。いじめを耐え抜いた人は、いじめに耐えられずにいる人を未経験者よりも厳しく評価しました。失業を経験した人は、失業して道を踏み外した人物への思いやりが、いま失業中の人や未経験者よりも低くなりました。
著者らの説明はこうです。苦しみの記憶は、過ぎてしまうと薄れていきます。あのとき自分がどれほどつらかったかを、人は後から正確に思い出せません。つらさの記憶が薄れると、残るのは「大変だったけれど、自分はやり遂げた」という事実のほうです。その状態で、いま同じ場所で苦しんでいる人を見ると、「自分にできたのだから、この人にもできるはずだ」という見方になります。乗り越えた本人の目には、その苦難はもう、実際よりも小さく見えているわけです。実際、この実験で冷たくなっていたのは過去に耐え抜いた人だけで、いままさに苦難の中にいる人は、思いやりを保っていました。つらさをまだ忘れていないからだと考えられます。
苦しみから生まれる利他性
では、「次の人はこれで苦しまないように」の側はどこから来るのでしょうか。ひどい目に遭った経験は、放っておくと他者への信頼を壊し、防衛と警戒の側に傾かせます。被害を受けた人が加害する側に回ってしまう連鎖も、繰り返し観察されてきたと記されています。それでも一部の人では、苦しんだ経験がむしろ他者へのケアに向かいます。Staub & Vollhardt (2008) は、これに「苦しみから生まれる利他性(altruism born of suffering)」という名前を与えて、どんなときにそれが生じるのかを整理しています。
たとえばホロコースト生存者100名への調査では、82% が収容所の中で他の収容者を助けていました。食料や衣服を分け合っていた、という証言です。戦禍にあった国々の民間人へのインタビューでは、敵側の集団の人を助けた例まで報告されています。クロアチアでは、戦争の前から続いていた縦断研究で、空爆の時期を挟んで子どもたちの向社会的な行動の評定がむしろ上がっていました。過去に暴力や災害で苦しんだ経験のある学生のほうが、津波の被災者への共感や責任感が強く、救援ボランティアにも多く登録していた、という調査もあります。
そのうえで著者らは、苦しみが他者へ向かう道は、条件がそろったときに開くと整理しています。挙げられている条件は大きく四つあります。1つめは、傷が癒えていくこと。つらい経験を語ったり書いたりすることや、自分の苦しみがなぜ起きたのかを理解することが含まれます。2つめは、苦しみのさなかや後に、誰かに助けられた経験があること。助けられた経験があると、人への信頼が保たれやすくなります。3つめは、自分が誰かを助けられた経験があること。4つめは、助ける人の姿をそばで見られたこと。助けてくれた人や助ける人の姿は、手本として残ります。こうした条件の先で、自分と同じように苦しんでいる人を他人事と思えない感覚が、助ける側への入り口になります。
乗り越えることと、癒えること
こうして並べると、自分の中の両面にも説明がつきます。仕事の苦労は、助けられた記憶のないまま、達成として乗り越えたものでした。だから「すぐ調べればわかるのに」と思ってしまうときは、過去のつらさが薄れて、「それくらい当たり前にできるでしょ」という基準で相手を見てしまっているのだと思います。実際には、得意と不得意が人によってばらばらなだけなのですが…。一方の孤独は、大学院での良い出会いや、研究を通して自分の過去を見つめ直す機会の中で癒えてきたものでした。いま相談員を続けているのはその地続きで、振り返れば Staub らの挙げた条件のいくつかに重なっています。前者は基準になり、後者は共感として残った、ということなのだと思います。
2本の論文は、細部では噛み合わないところもあります。Ruttan らの実験では、いま苦しんでいる最中の人が共感的でした。一方で Staub らは、癒えていない傷は、他人の苦しみを見て自分がつらくなるだけの状態に向かいやすい、とも指摘しています(この状態は、共感とは区別して個人的苦痛と呼ばれます)。私は、乗り越えることと癒えることを分けて考えると辻褄が合うんじゃないかと読みました。
人を厳しく見てしまうあの感じに、自分は想像力の欠如だと小さな自己嫌悪がありました。ただ、これらの研究に沿うなら、それは悪意の強さのようなその人の特性的なものから生じているのではなく、何かを乗り越えた人に広く生じやすい認知の歪みの一種と言えそうです。似たような自己嫌悪を抱えている人は、ほかにもいるんじゃないかと思います。特性ではなく歪みなのだと知っておくだけでも、自分を責める分は少し減らせるかもしれません。
参考
- Zitek, E. M., Jordan, A. H., Monin, B., & Leach, F. R. (2010). Victim entitlement to behave selfishly. Journal of Personality and Social Psychology, 98(2), 245–255.
- Ruttan, R. L., McDonnell, M.-H., & Nordgren, L. F. (2015). Having “been there” doesn’t mean I care: When prior experience reduces compassion for emotional distress. Journal of Personality and Social Psychology, 108(4), 610–622.
- Staub, E., & Vollhardt, J. (2008). Altruism born of suffering: The roots of caring and helping after victimization and other trauma. American Journal of Orthopsychiatry, 78(3), 267–280.