善意で動いたはずなのに、あとから自分の中の利己心に気づくことがあります。頼まれごとを引き受けたのは、断ったら悪く思われそうだったからかもしれない。人助けの話を誰かにするとき少し誇らしいのは、立派だと思われたいからかもしれない。気づくたびに、これは偽善なんじゃないか、という問いが顔を出します。
私には比較的身近な問いで、今回はこの問いに関して、心理学のいくつかの研究を見てみたいと思います。
動機は混ざっているのが普通
ボランティアをする人の動機を調べた古典的な研究に、Clary et al. (1998) があります。ボランティア活動が一人の人の中で果たしている機能を調べて、6つに整理したものです。困っている人の役に立ちたいという価値の表現はその一つにすぎず、残りの5つは、知識や技能を得る、人とのつながり、キャリアにつながる経験、罪悪感や心の重さの緩和、自尊心を高め成長する、という自分向きの機能でした。そして多くの人は、これらの動機を複数同時に持っていました。
この結果を冒頭の問いに当てると、「利己心が混じっているか」という基準は、ほぼ機能しないことがわかります。役に立ちたい「だけ」で活動している人のほうが珍しいので、混じっているだけで偽善と呼ぶなら、世の中の善意はあらかた偽善になってしまうからです。
助けることと、自分を大切にすること
一方で、不健康な利他の形については、Kaufman らの研究が興味深いです。 Kaufman & Jauk (2020) が「病的な利他性(pathological altruism。日本語の研究では「病的利他主義」と訳されます)」と呼んで測ったのは、自分を害する形でまで他者を優先してしまう傾向です。承認を得たい、拒絶や批判を避けたい、という恐れに駆動された利他を捉えようとして設計された概念で、尺度の項目には「自分を害しうる形でも、他者のニーズを自分より優先する」「私は必要とされることを必要としている」といったものが並びます。実際、この得点が高い人は、人を助ける動機としてもそうした恐れの側を挙げやすいことが確認されています。
たとえば、自分も手一杯の日に「ちょっとお願いしてもいい?」と頼まれて、反射的に「いいよ」と言ってしまったとします。終わる頃にはどっと疲れていて、助けたはずの相手になぜかうっすら腹が立っている。この枠組みで見ると、問題は引き受けたことそのものではなく、何に押されて引き受けたかになります。断ったら相手にどう思われるだろう、という不安が先に立っていたなら、それは病的な利他性が捉えようとしている、恐れに駆動された利他の形に近いところにいます。うっすら腹が立つのも、こう考えると筋が通ります。恐れから引き受けたということは、本当は差し出したくなかった時間や労力を差し出した、ということです。断らなかったことで悪く思われることは避けられても、この望まない犠牲は残ります。その分、せめて感謝くらいは返ってきてほしい。口に出さなくても心のどこかでそう期待していて、その期待が満たされなかった、という構図です。
では、利他的であることは、多かれ少なかれ自分を後回しにすることとセットなのでしょうか。Kaufman らはもう1つ、「健全な利己性(healthy selfishness。同じく「健康的利己主義」と訳されます)」という尺度を作って、この点を確かめています。こちらは利他の場面ではなく、普段の生活で、自分の幸福や成長を、他者を害さない形で大切にできているかを測るものです。項目には「誰かの役に立たなくても、自分が楽しむことを自分に許す」「人につけ込まれない程度の自己尊重がある」といったものが並びます。利己が健全で、利他が病的。普段の感覚とは逆の組み合わせですね。
結果、2つの得点は中程度に逆相関するだけで、一直線の両端ではありませんでした。すなわち利他的であることと、自分を大切にすることは、データの上では両立する、ということです。あわせて、健全な利己性は抑うつの低さを最もよく予測し、病的な利他性は抑うつの高さを予測しました。不健康な利他を特徴づけていたのは、利己心が混じっていることではなく、恐れに押されていることと、自分を削っていることでした。
葛藤なく喜べているか
精神分析の世界でも、健全な利他とそうでない利他は区別されてきました。Seelig & Rosof (2001) は利他性をいくつかの型に分けています。健全な利他の中心に置かれるのは「生成的利他性」と呼ばれる型で、他者の成功や幸福を育てることを、葛藤なく喜べる状態を指します。その反対側には、利他の見た目をしていながら、実際には自分の内側の苦しさを覆い隠す防衛として働いている型もあります。Kaufman らの病的な利他性は、この防衛としての利他の像を、測れる特性の次元に写し取ったもののようにも読めます。
目印は行為の大きさや頻度ではなく、そこに葛藤のない喜びがあるかどうかです。同じ「いいよ」でも、余裕のある日に言えたときは後味が違います。手伝い終えて、素直に気分がいい。あの差が、この分類の言う葛藤の有無なのだと思います。
結論
利己心が混じった善意を偽善と呼ぶなら、世の中の善意はあらかた偽善で、私の善意もそこに含まれます。その意味では、冒頭の問いの答えは「偽善である」でよいのかもしれません。ただ、ほとんどすべての善意に当てはまるラベルは、自分の善意の何かを見分ける役には立ちません。見分ける役に立つ分かれ目として研究が指していたのは、恐れが駆動していないか、自分を削っていないか、助けることを喜べているか、のほうです。
恐れの側にいると気づいたときの処方も、研究の中にあります。Kaufman らが回復の経路として挙げるのは、利他をやめることではなく、健全な利己性を足すことです。自分のニーズを主張してよいと思えるようになること、自己ケアに伴う羞恥を減らすこと。あの場面でいえば、手一杯の日に「今日は無理そう」と言い、それに罪悪感を持ちすぎないことが出発点になります。実際、Kaufman らの研究でも、健全な利己性が高い人は助けることをやめておらず、助けること自体の満足を動機に人を助けていました。一見利己性と利他性は対立するもののように感じられますが、健全な利己と健全な利他は、同じ人のところに一緒に現れるようです。
たとえ自分の利己心に気がついてしまったとしても、混じっていることだけを理由に、善意をまるごと疑わなくてもよさそうです。
参考
- Clary, E. G., Snyder, M., Ridge, R. D., Copeland, J., Stukas, A. A., Haugen, J., & Miene, P. (1998). Understanding and assessing the motivations of volunteers: A functional approach. Journal of Personality and Social Psychology, 74(6), 1516–1530.
- Kaufman, S. B., & Jauk, E. (2020). Healthy selfishness and pathological altruism: Measuring two paradoxical forms of selfishness. Frontiers in Psychology, 11, 1006.
- Seelig, B. J., & Rosof, L. S. (2001). Normal and pathological altruism. Journal of the American Psychoanalytic Association, 49(3), 933–959.