「他者を自分の目的のための手段として見る、扱う」という表現を見るとなんだか冷たさを感じますし、そうしてはいけないものだと感じます。ところが大学院にいた頃、人間関係はまさに互いを手段として見ることで成り立っている、と記述する一連の論文に出会いました。しかも冷たい話としてではなく、良い関係の基盤の話として、です。
長く持っていた感覚と正反対のことを言われて、印象に残りました。ただ、印象に残ったまま、きちんと腑に落とせてもいませんでした。今回は、この「冷たく聞こえるのに、実際は良い関係の基盤だと言われている」というギャップの正体を、論文を読み直しながら整理してみます。
手段として評価される人間関係
出発点になるのは、動機づけ研究で使われる「目標」と「手段」という言葉です。目標とは、達成したい望ましい状態の心の中の表象のことで、健康になりたい、安心したい、良い仕事をしたい、といったものまで広く含みます。手段とは、そこへ至るのに役立つもののことで、行動やモノ、そして人も含まれます。手段は「いま自分の中で動いている目標にどれだけ役立つか」で評価される、というのが基本的な考え方です。
この原理が人に対してもそのまま働いていることを示したのが、Orehek らが people-as-means アプローチと呼ぶ一連の研究です (Orehek & Forest, 2016; Orehek et al., 2018)。たとえば、いま追いかけている目標があるときは、その目標に役立つ友人が自然と頭に浮かび、その人をより親密に感じることが実験で示されています。
そう聞くと、ずいぶん打算的な人間観に見えます。実際、この枠組みは打算的な利用を除外していません。Orehek & Forest (2016) は、人を手段と見ることが人身売買のような冷淡で非人格的な利用に行き着く場合があることを先に認めたうえで、しかし思いやりに満ちた事例も、とりわけ親密な間柄には数多くある、と続けています。挙げられている例は、病気のパートナーを介護する、葬儀できょうだいを抱きしめる、友人のマラソンの練習ぶりを称える、といったものです。搾取も思いやりも、相手の目標に対する手段性という同じ構造の上に乗っています。
そのうえで Orehek らは、満足で長続きする関係の条件を、相互に知覚される手段性(mutual perceived instrumentality)だとしています。相手が自分の大事な目標を支えてくれていると感じられて、かつ、自分も相手の大事な目標を支えられていると感じられる関係のことで、これは一方的に利用する関係とはむしろ正反対ですね。
もうひとつ、直感に反する知見があります。人は、誰かの手段になること自体を喜ぶ、というものです。誰かを助けているとき、人は自分に価値がある感覚や、繋がりの感覚を得ます。相互性が鍵なら、相手を助けることだけでなく、相手に助けを求めることも、相手に「手段になる機会」を渡すという意味で、関係を良くする側の行為になります (Orehek et al., 2018)。
冷たさの正体
それでも、「人を手段として見る」という言葉の冷たさはなんとなく残ります。この違和感を扱ったのが Orehek & Weaverling (2017) です。哲学で客体化(人をモノのように扱うこと)と呼ばれてきた概念について、哲学者 Nussbaum の分析を引きながら、その定義の中心には手段性があること、そして人の認知の仕組みは人とモノを同じ原理で評価してしまうため、人を手段性で評価すること自体は避けられない、と論じています。カントは人を単なる手段として扱ってはならないと言いましたが、この論文の立場では、手段性での評価は道徳以前の、認知の仕様とします。
そのうえで彼らは、客体化が悪いものになる場合を2つに絞り込みます。向けられた目標そのものが非道徳である場合と、評価される次元が本人の評価されたい次元とずれている場合です。人を傷つけるのは主に後者のミスマッチです。たとえば、仕事の中身で評価されたいと強く思っている人が、その中身には触れられず「いつも明るくて場が和むね」とばかり言われたら、褒められているのにそこまで嬉しくない、場合によっては虚しくなってしまうこともあるかもしれません。望まない次元では、賞賛でさえ不快になりうる、と論文にも記されています。手段として評価されること自体ではなく、望まない目標の手段として評価されることが人を傷つける、という整理です。
これを読んでいる中で、私が「人を手段として扱う」というフレーズに感じた冷たさは、それを「手段としてしか見ない」という風に捉えていたためだと気が付きました。冷たさは、手段として扱うことそのものではなく、そこに相手への配慮を欠いたこちらからの一方的な評価軸を押し付けるところにあったようです。
無条件の肯定のありか
ギャップがほどけた後にも、引っかかりが残りました。手段性が人間関係の基本なら、相手にとって自分が有用であり、自分にとっても相手が有用である、という価値の釣り合いが関係の条件になって、どちらかが手段として有用でなくなれば、関係は維持しづらくなるのではないか。実際、目標の進捗がまだ足りないときほど、人はその目標に役立つ相手を近くに感じ、進捗を実感するとその特別な近さは消える、という実験もあります (Fitzsimons & Fishbach, 2010)。それは結局「役に立つかどうか」という条件付きでしか相手を肯定的に評価できず、親が子を思うような、無条件に相手を認め尊重する見方には居場所がないように見えます。私自身、人間関係をこうした等価交換のかたちで考えては苦しくなったことがあり、ここにもまた冷たさを感じてしまいます。
ただ、この「釣り合いが大事」という直感を、Orehek らはむしろ否定しています (Orehek et al., 2018)。与える分と受け取る分が釣り合っているときに関係の満足は最大になる、という見方は自然に思えますが、釣り合っていないように見えることは必ずしも問題にならない、として理由をいくつか挙げています。
ひとつは、不均衡は見かけだけで、実は互いに与え合っている場合があるからです。親子がその例です。親が子に食事を与え、服を着せ、世話をしていることは誰の目にも明らかですが、子どもの側も、親に「人とつながっている」感覚や「次の世代を育てている」感覚を返しています。与えているのが一方だけに見えるのは、片方の与え方が目に見えやすく、もう片方が見えにくいだけ、というわけです。
もうひとつは、等価交換の発想では「与えること」を損として数えますが、この枠組みでは違うからです。先に書いたとおり、人は誰かの手段になることからも、自分に価値がある感覚や繋がりの感覚を受け取っています。つまり、たくさん与えている人はその分だけ損をしているのではなく、与えること自体から受け取っているものがある、というわけです。
そのうえで、ひとつめの親子の例は、もう一歩広げて解釈できるように思います。親にとって子は、愛する、世話をする、世代をつなぐ、という親自身の目標の手段として、何かを達成しなくても、存在するだけで手段性を満たしてしまっている。そう捉えれば、「役に立つかどうか」で人を見る枠組みの中に、無条件に相手を認める見方の居場所も、ちゃんと残されているように思います。
ということで、私のもやもやはだいぶ晴れました。自分が相手の役に立つには、と考えるだけでなく、相手が「自分は役に立てている」と感じられる機会をどう渡すか、という方向でもやさしく在ろうとすることができる、という見方も得られて、今回読み直した甲斐があった気がします。
参考
- Fitzsimons, G. M., & Fishbach, A. (2010). Shifting closeness: Interpersonal effects of personal goal progress. Journal of Personality and Social Psychology, 98(4), 535–549.
- Orehek, E., & Forest, A. L. (2016). When people serve as means to goals: Implications of a motivational account of close relationships. Current Directions in Psychological Science, 25(2), 79–84.
- Orehek, E., & Weaverling, C. G. (2017). On the nature of objectification: Implications of considering people as means to goals. Perspectives on Psychological Science, 12(5), 719–730.
- Orehek, E., Forest, A. L., & Barbaro, N. (2018). A people-as-means approach to interpersonal relationships. Perspectives on Psychological Science, 13(3), 373–389.