「本のおくすり」を作っている理由

「本のおくすり」という iOS アプリを個人開発しています。自分のおすすめの本を、処方箋のかたちにして誰かへおくるアプリです。本のアプリを作っていると言うと、よほど本に救われた経験があるのだろうと思われそうですが、実はそういう原体験があるわけではありません。それなのに、なぜ本のアプリなのか。今回は、このアプリを作った背景を書いていきたいと思います。

善意の循環という出発点

出発点にあるのは、自分自身の生きづらさの感覚です。恥ずかしい話ですが、これまで社会にうまく馴染めないか、逆に過剰適応してしまうかのあいだで苦しんできた経験があります。そのままの自分でいいと思える感覚は薄く、がんばって「普通の人」のふりをして社会に溶け込んでいるような感覚が長くありました。同じような苦しさを抱える人の助けになりたい、という気持ちがはじめにありました。

では、どうすれば助けになれるのか。考える際に影響を受けたのが、影山知明さんの『ゆっくりいそげ』という本に出てくる、「消費者的人格」と「受贈者的人格」という概念です。同じお金を払うならできるだけ得をしたいという構えと、こんなにも受け取ってしまった、何かお返しをしたいという構え。人の中にはこの二つが共存していて、どちらのスイッチが入るかは、お店がどういう風にお客さんへ接するかで切り替わると語っています。

これはお店と客の関係に限らず、自分と世界の関わり方そのものに言えることだと思っています。自己価値を脅かす刺激にさらされ続ければ、防衛的なスイッチが入り、今度は自分が他者へネガティブな刺激を発するようになる。そして、自分が発したネガティブな刺激が相手からのネガティブな反応を呼び、それがまた自分を脅かす刺激になって返ってくる。悪循環です。逆に、自己価値を肯定するような刺激を受ければ、自分も他者へポジティブな刺激を返すようになり、それが巡って自分にも返ってくる。小さい頃からのこうした積み重ねが、世界は良いものか、悪いものか、という見方を形作っていくのだと思います。

そして社会の中に自分を位置づけることに苦しむ人には、日常は放っておくと悪循環の側に傾きやすいように思います。比較されたり、評価されたり、批判されたり。自己価値を脅かす刺激はデフォルトで溢れ、目につきやすいのに、ポジティブな刺激は意識しないと受け取りづらい。だから、人の善意ややさしさに触れる機会を、意識して増やしたい。そういう仕組みを作りたいというのが、「本のおくすり」よりも先にあった気持ちや考えです。

コーヒーから本へ

実は、アプリより前に考えていたのは、コーヒー屋さんでした。海外に Suspended Coffee という仕組みがあります。前のお客さんが、まだ見ぬ次のお客さんのためにコーヒーを一杯買っておく。自分は誰かに買ってもらったコーヒーを飲み、今度は自分が次の誰かのために一杯買う。そういう形でやさしさが回っていく場を、自分の店でやれないかと考えていました。ただ、自分のスキルはリアルの店舗よりもデジタルの領域にあります。いつかはやりたいなと思いつつ、現実的に自分が作りやすい仕組みを考えるようになりました。

もう一つ、これとは別に育っていた問題意識があります。カウンセリング心理学を学ぶ中で、生きづらさを抱える人が、心療内科やカウンセリングといった専門的な支援にアクセスしづらい状況があることも見えてきました。心の不調で助けを求めることには、日本ではまだ偏見の目があって、本当にひどくなるまで助けを求められない。専門的な支援の「手前」にある、誰もが気軽にアクセスできるケアの形ももっと必要だと考えるようになりました。

デジタルでこうした循環を作る方法を考えるうちに、この二つが結びつきました。本は壁が低い媒体です。カウンセリングに行くには心理的なハードルがありますが、本は誰でも、いつでも、気軽に手に取ることができます。ブックセラピー(読書療法)という領域が学術的に研究されていて、本が人の心に対して治療的な効果を持ちうることも示されています。こうしたところに可能性を感じたのが、「本」を選んだ理由です。誰かの善意が、本という形でケアとして届く。そうして「本のおくすり」の構想が生まれました。

処方箋という形で

だから、このアプリはアルゴリズムによる書籍レコメンドではなく、誰かから誰かへ、人の善意が介在する形にしています。処方箋に「効能」に加えて「自分の体験」という欄を設けているのも、AI が生成するコンテンツではなく、一人の人間の想いが乗った処方箋であることが大切だと考えているからです。

処方箋は、受け取る側だけに嬉しいものではありません。誰かにおすすめの本をおくると、自分は人の役に立てるのだという感覚が、贈った側にも残ります。受け手にも贈り手にもなれる双方向の設計にしたのはそのためです。

さいごに

このアプリを使ってくれた人には、「世界はやさしい」と少しでも感じてもらえたら、と思っています。処方箋を通じて誰かの善意に触れて、世界の見え方が少しだけ明るくなる。そしていつか、自分も誰かに本をおくりたくなる。その繰り返しの中で、社会への信頼が少しずつ戻っていく。そういう体験になっていったら嬉しいなと思います。もちろんそうしたメンタル的な側面だけでなく、普通にエンタメとして本を楽しむ生活の中に取り入れてもらえたら、それもとても嬉しいです。

そしていつかは、アプリの中だけでなく、最初に思い描いたコーヒー屋さんのように、リアルな場でも善意が循環する仕組みを作れたらと考えています。